写真新世紀2018見てきた

 

写真新世紀2018見てきた。

プレゼン審査は見てないので作家がどういうプレゼンをしたのかはわからないけど、なぜかデジカメwatchが詳しかった。

「Hanging Heavy On My Eyes」と名付けられた本作では、シンガポールの法定機関が発表している大気汚染指標(PSI)の最高値と最低値を写真の露出値に変換し、「光源とレンズの間になにもない」状態を撮影。汚染指数(露出値)の最高値と最低値をグラデーションとして表現しており、展示においては、日によって異なるグラデーションの写真が1年分、月単位で並べられている。

グランプリ受賞者のソン・ニアン・アン氏のコメント。ただやっぱり疑問に思ったのは、なぜ大気汚染指標を暗室での露出値にしたのかという部分。暗室内の作業なら大気汚染と何も関係がないし、そんな空間で光源とレンズの間に何もない状態を作っても、それはただ暗室の中で印画紙に光が焼き付いたという話にしかならない。いや、今はなんでも数値化されて、数値によって遠く離れた場所の情報を知る事ができるんだ、だから暗室でシンガポールの大気の状況を印画紙で見える化しているんだ、という事もできるだろう。ではなぜ、暗室内での光源という、あたかも太陽の光を印画紙が受け取るという図式を模した手法を取ったのだろうか。なぜデジタルデータをそのまま扱ってほかの媒体に出力しなかったのだろうか。どうしてもアウトプットの仕方に疑問が残ってしまう。なぜ写真でなければならなかったのだろう。写真新世紀だから、では本末転倒になってしまう。

二アン氏の受賞作は河原温の日付絵画を意識しているのは明らかだろう。毎日日付をペインティングするかのように、日々大気汚染指標の数値を取り、暗室で光を印画紙に焼き付ける。まるでフォトグラムを日付絵画のように見立てた行為で、そういう意味では面白い趣向だと思う。ただ、日付絵画の日付という世界が同時に認識する数値で、しかもそれ以外は題材としてギリギリまで削ぎ落としたものを描くという行為と、大気汚染指標という数値を用いてを暗室作業を行い大気汚染を視覚化するというコンセプトに間には、数値をそれそのものとして扱う態度に乖離があると思う。任意の数値を作品としてあつかうなら、なぜ、その数値を用いてその手法を取ったのか、と問い続けられてしまう。日付絵画はそれが日付だから、それ以外描くものがないから、という極限にまで達している。二アン氏の作品も同様に問い続けられ揺らがない強度があるだろうか。

一方でほかの作品はどうだったか、という所で佐々木香助氏の作品を対比的にあげるが、福島の避難指示が解除された地域を夜間に長時間露光するという手法は、確かに震災という強いテーマを扱い、その人気のない不気味さを夜の長時間露光をコントロールする事で表現していて、題材の選択にせよ表現方法にせよ強度は高かったが保守的でオーソドックスに見えてしまうきらいはあった。そこで二アン氏の作品と比較した時にどういう力学が働いたのかはわからないが、ただ、二アン氏の作品の方がより保守的でない、という意味で選ばれたのだとしたら、首を傾げたくなってしまう。

そもそも作品の方向性が異なるものを同じ土俵に並べて、応募基準も写真でしかできない表現とか写真の新しい可能性というような曖昧なお題目で、審査員の出自による好みのバランスによって選ばれるコンペティションが行われていることにずっと疑問を持っているわけだが、この写真新世紀という賞は何事もないようにそのまま回が進んでしまっている。ここでの受賞がどれくらいのステータスになっているのかはわからないが、ぜひ今回受賞した人たちの個展を見てみたいと思う。受賞はあくまでおまけで、若手作家のショーケースという意味合いならば、この賞の意義もまだ感じられると思う。