さよならの朝に約束の花をかざろう 

今作品で特筆すべきなのはその親子の関係性だろう。イオルフという人間よりも長命の種族の少女マキアが人間界に逃げ落ち、そこで赤ん坊のエリアルを拾い生活を共にしていく。逃亡生活の中でエリアルは青年に成長し、老いを知ることがないマキアを母親ではなく一人の女性として認識するようになり、その関係は破局を迎える。

マキアは母親としての役割を必死に演じ、エリアルと母子関係であることに拘る。男たちからの視線をうまく受け流し、エリアルの前ではただ母親であろうとする。この母子関係からは父性が入念に排除され、父親のないエディプスコンプレックスの帰結として、子が母を異性として自分の物にしようとする。だが、マキアはあくまでも母の役割であることに拘り、エリアルを子としてしか認識しない。エリアルはマキアという一人の女性を守るために騎士団へ入り大人に成長しようとするが、やがて幼馴染のリタと再会し、結婚をする。

やがて他国との戦争の果てに二人は再開する。リタの出産を見届け、マキアはエリアルに、逃亡生活の中でエリアルだけが生きる支えだった事、そして自分の名を読んでくれるのなら、その名は母親という名でなくてもよかった、という告白をしてエリアルの元を去っていく。母親と女性、母性と恋愛という二つのマキアの側面がギリギリまで肉薄する瞬間である。

出会った形が親子でなかったならば、また別の形もありえたかもしれない。だが最初に出会った時に生まれた関係性の形が親子であった。そしてその役割が生んだ関係性の形はあまりにも強力だった。言い換えるならば母親という役割は愛情という強いエネルギーに形を与える一つの金型にすぎず、母性という母が子に与える固定された愛の流れは存在しない、とこのシーンは語っているのではないだろうか。そして、それを描くために父性という設定はこの映画から取り除かれたのではないだろうか。

一方で同じイオルフとしてメザーテ軍に捉えられ、その王族の子を孕ませられたレイリアという娘の人生も描かれる。どんな形であれ自らの子を宿し、出産したレイリアにはマキアと同様やはりその娘だけが生きがいとなった。だが、出産後すぐに娘とは引き離されて幽閉され、半狂乱となってしまう。マキアとは対照的にレイリアは戦乱のさなかで一瞬だけ娘と出会い、私のことは忘れて、と伝えて、マキアと共に里に帰っていく。母親という役目に拘り、そして自らそれに縛られ、その境遇に止まる道を自ら選んだレイリアは、最後にその呪いを自ら引き剥がし、竜に乗って空に飛び去っていく。これも母親という役割に縛られた女性の決断の一つの形である。

ラストでマキアはエリアルの最期の姿を目にし、母親は涙を流さないという約束を破り、号泣する。やはり母親というのはかりそめの役割にすぎなかった。そして、愛でもあり呪いでもあった一つの愛情の関係性を肯定して、再び里へ帰っていく。

恋愛、親子愛という垣根を取り払い、ただ愛情という感情の結びつきを描こうとした本作だが、日本のアニメーション映画において、母子関係をここまで凝視し、解体してみせようとした作品は存在しないのではないだろうか。その域まで達した本作の存在は、過去、未来において牧歌的な母子の愛を語る作品に対して、強烈な異議を突き立てていくだろう。