~2018/10/22
風邪気味だったのでサウナ、家系ラーメンを食べ、帰りがけにゲリラ豪雨にあい
翌日家で寝てた週末。
和光市、バストイレ共有、でもミニシアター、撮影スタジオ等の揃って8万円。
なかなか良くないですか。
アニメ
そろそろ振り返らないと忘れちゃいそうなくらい昔の作品になったのかも
本題はさておき、ブコメでセーラームーンにパンチラはない→いや間違いなくあった→設定では禁止されていた→禁止していたけどマスク作業が大変でやらなくなった、という流れで色々勉強になりました。
はい。
最近ネトフリで見たアニメ。コミックスウェーブがハオライナーと組んだ日中合作の劇場公開作品。短編3本。近代化していく中国と過去へのノスタルジーというようなテーマでどれもちゃんと見れる作品だったんだけど、3本目の上海恋が中学生同士のテープレコーダーに吹き込んだ声の交換日記による秒速5センチメートルみたいな話で特に興味深かった。
まんが
mono 1巻【Amazon.co.jp限定描き下ろし特典付】 (まんがタイムKRコミックス) Kindle版
https://www.amazon.co.jp/dp/B07HNVWQTW/ref=cm_sw_r_tw_awdo_c_x_StqZBb56AFXHD
不勉強にもゆるキャンと並行して連載してしてる作品あったんだと思い注文。表紙に思いっきりリコーのthetaが。
というわけであfろ氏が魚眼、360度カメラを駆使してレイアウトを作ってるなんてとっくの昔に知ってた、と思ったけどどうもゆるキャン△以前の作品からそういう傾向があったぽい。下記ブログの一コマからそう思った。
あfろ先生は、いかにして『シロクマと不明局』から『ゆるキャン△』に辿り着いたのか | まっしろライター
ちょっと過去作も読んでみたい。
格闘技
期待値は高かったけど、本当の世界トップレベルの中で村田がどのレベルにあるのか如実にわかってしまった試合。32歳でスタイルが完成されていて伸びしろがあまり見えず、今回負けた相手より数段上の相手との試合にたどり着くチャンスがあとどれくらいあるのかというと。村田は決して弱くないけど、世界のこのレベルは本当に選ばれし者しかたどり着けない怪物達の領域なので。
なかよし。
現代美術
先日の小田原のどか氏の記事への反応
お返事しますね。(1)小田原さんが長崎の《母子像》や《平和祈念像》を永く研究していることは知っています。ただこの紙幅で《サン・チャイルド》と長崎の事例を比較するのは、ミスリードを誘いがちですし知らない人には今回の事件を利用して自分の論を世間に発表しているように見えると思います。
— 八谷和彦:佐賀美3人展11/18まで (@hachiya) 2018年10月22日
(2)長崎の《母子像》と今回のケースでは設置に至る状況がかなり違うのはご存知と思いますが(例えばサン・チャイルドの譲渡は無償だったはずだし、制作費が公費から払われてはいないはず。設置・撤去は公費ですが)そのへんには触れずに長崎と福島のケースを並べて書くのは誤解を生むと思います。
— 八谷和彦:佐賀美3人展11/18まで (@hachiya) 2018年10月22日
(3)あと、そもそも、そういう「『美術の人の態度』そのものが問題をややこしくしたのでは?」というのが自分の印象です。一番の違和感は、冒頭の「あまりにも早い撤去だった。(略)そう思わざるをえなかった。こんなに早い幕引きから、私たちは何かを教訓とすることができるのだろうか。」です。
— 八谷和彦:佐賀美3人展11/18まで (@hachiya) 2018年10月22日
(4)誰かの足をうっかり踏んで「痛いから足をどけて」と言われたときに「この足の位置は業界ですでに認められていて」とか「この足の位置をもう少し検証させてください」というのは意味がなく、まずはどけることが肝心で、それに関しては市長とヤノベさんは適切な対応をしたというのが僕の意見です。
— 八谷和彦:佐賀美3人展11/18まで (@hachiya) 2018年10月22日
(3)の「美術の人の態度」もまたある一つの「市民の態度」であるというのが一つ。(4)足が痛いからどけてと言われた時にどけるのが肝心というけど、
まず前提としてこのサンチャイルドは深刻で緊急に排除しなければならないような人権を毀損する表現ではないとして、
そして像を設置した事について少なくとも「賛否が別れていた」ものとして、
表現の受け取り方はそれぞれの立場から様々で、問題の表現である公共彫刻という性質上、その受け止め方でぶつかり合いが起きた時に即座にどけてしまわず様々な市民の意見を聞きつつ公共に即した表現という問題について話し合い、落とし所を話し合うのが筋ではないか。そういう歴史の積み重ねが海外ではミュンスター彫刻プロジェクトやホロコースト記念碑に繋がっていて、日本にも同様に平和祈念像や母子像で公共彫刻に対する議論が起こったのにそうした熟議の積み上げがなかった。そして、その延長線上に今回のサン・チャイルド像の問題がある、と捉えようとする小田原氏の記事は適切な論の貼り方だと思うし、(1)のツイートのように事件にこじつけた持論の展開である、とは全く思わない。設置に至る状況が違ったとしても、本記事の決定的な瑕疵になるものではないと思う。
もし上記のように本問題を歴史的な視座から考えようとする態度自体が被害者(?)に対して「意味がない」とするのであれば、それはそれで熟議の存在しないまさに現代のSNS的な立場表明だと思う。誰かが痛みを訴え、そこから起きる波及効果を恐れて即座に撤去する。結局それでは至るところで本件のような事例が起きるだけではないのか。彫刻の公共の場に建ち即撤去する事のできない「重さ」、即座に撤去せずに話し合いを続けていく「遅さ」を本問題と公共彫刻の歴史から見て取るべきではないだろうか。