原美術館 リー・キット展

 原美術館が2020年に閉館という事でびっくり。あの魅力的な空間が見れなくなるのが残念。

このニュースが出る前に見に行ったリー・キット展が良くて、それについて書いた下書きに入れっぱなしのメモがあったので書いてみようかと。美術手帖でもいいレビューが上がっていたので、それを交えつつ書きます。

 福尾匠さんのレビュー。

清水穣さんのレビュー。前半部分がリー・キット展について。

 

プロジェクターと絵画と映像と建物、あと浮遊する言葉について

最初の部屋に入ると歪んだ光の矩形が目に入る。部屋に入って右手にはぽつんと小ぶりの絵が飾られ、その絵画を照らす光の矩形が左手に伸び視線を空間全体へと導く。この導入によりこの展示が、手作業で作った絵の出来だけを問題にするのではなく空間と絵画の関係性によって生まれた空間を扱っているんだとわかる。宣言文のような部屋。

(福尾さんのレビューの記事にある2枚目の写真がそれ。実際の空間とは印象が違うけど。ぜひ見に行って体感してほしい。)

ほとんどの部屋でプロジェクターを使用しているけれど、中には光が投影されているのみだったり、プロジェクターの光をプラスチックボックスによってディフューズし、それが隣の部屋の絵画をほのかに照らすような物もある。また、ブラインドを映した映像と実際のブラインドを併置したり、風に揺らぐ木々を映した映像を室内に映したりしている。

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清水さんの評は原美術館の歴史を紐解き、作家の作品とそれを接続して語る。

周知のように、原美術館のような戦前からの日本の上流階級が所有する洋風建築の多くは、占領下にGHQに接収された過去を持つ。洋風の舞台で白人を演じていた上流日本人は、階級的に下の「本当の白人」に文字通り土足で踏み込まれて追い出された。

プロジェクションされる最低限の言葉と映像が、原美術館の過ぎ去らない闇(「心の奥底で、君は決してそれを手放さない」)を、戦後日本の明るい偽善(「編集された人生」)を、そして相変わらずその延長線上にいる我々の精神の分裂(「Hello, Hey, I am sorry. But I am happy.」)を、浮かび上がらせるのである。

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編集された人生~のくだりはこれの事。これは作品内の英語を日本語訳したペーパーで、作品自体はこの横の壁に飾られている。

 

人生を編集しよう。

編集された人生を自分に信じこませるんだ。

もっと細部まで編集しよう。

人生は素晴らしい。

 

編集された人生を信じるんだ。

もっと細部まで編集しよう。

人生は素晴らしい。

 

この文の解釈はそれこそ誰が発話主体で、誰に対しての文なのかは宙吊りにされている。

清水さんの解釈だと、この文の発話主体はまるでアメリカ由来の消費社会の広告プロパガンダであるかのようだけど、それならどちらの文の意にせよ文を棒で消す必要はないはずだ。意味はどちらでもプロパガンダのように読める。

「私たち」とは誰なのかが気になるところだけど、自分が読んだ感じだと、棒で消してあえて「編集された人生を信じるんだ、もっと細部まで編集しよう」とした部分に、「編集された人生」を所与のものとして、そこから捉え直していく意思をこの文からは感じたし、単に戦後日本の闇や偽善を見て見ぬ振りをするという風には思えなかった。重要なのはどちらの解釈が正しいかではなく。発話主体が宙吊りになっているからいかようにも読めてしまうという事だろう。

というわけで福尾さんのタイトル解釈が気になりだす。

「僕らはもっと繊細だった。」とタイトルに打たれた句点は、この言葉が、始まったとたんに終わるタイトルとしての時間ではなく、前後の文を想定しうる文章としての時間を宿していることを示しており、かつその内容は過去と現在のギャップへと引き込むことで即座に観る者を「僕ら」にする。彼らは「感じ入る」こと以外のオプションは取り上げられるだろう。私はここで、私を私と呼ぶためにいったん「僕ら」を「彼ら」と呼ばなければならない。

映像の字幕として、あるいは絵の中に書き込まれた文字として読まれる断片的な言葉は、ごく簡素な構文("I am sorry, but I am happy", "Shave it carefully")、あるいは間投詞("Hello", "Hey")や名詞句("Selection of flowers or branches")であり、これらはどれもイメージとの明示的な連関を持たない。かたちとしては呼びかけや命令や指示であるのにもかかわらず、言葉はそれらの機能を果たさず、宛先に届くことなく落下する。テーブルトークの下では言葉の孤独がざわめいている(*5)。

 そのとき初めて、「僕ら」をどこに位置づけるべきかが見えてくる。テーブルを挟んで「私」と「あなた」を交換し続ける発話者の側ではなく、彼らの言葉が落下し、彼らの手やマグカップが休むテーブルクロスの上にこそ、「僕ら」は、それらと並んで置かれている。肌理が物質的な帰属先から遊離することでシチュエーションが非物質的に閉じられたように、言葉はコミュニケーションから剥離することで自身の孤独を恢復する。

丸々引用してしまい恐縮ですが。

自分にはこの展示が一見私たちへの親密さを放っているようで、どこか疎外されたような、親しみが宙に浮き、それがどこか乾いた響きを持っているように思えた。表現が気取りすぎたけど、単なる日常的な美しさや親しみへの賛美からこの展示を作っているとは思えなかった(でなければプロジェクションによる窓の外の映像と、窓の外そのものをフレーミングで対置したりするだろうか)。コミュニケーションから遊離した言葉たち。窓の外の自然を映すプロジェクション。あるいはプロジェクタ由来のまるで窓とカーテンの隙間から差し込むような光。その在り方をリー・キットは指し示そうとしている。

というわけで、二つのレビューの力を借りて書いてきたけど、この展示は今年ベストいくつかに入る展示だと思うし、残り数限られた原美術館での鑑賞体験をぜひ味わってもらいたいと思う。