taronasu 松江泰治 gazetteer 展 /東京ステーションギャラリー 吉村芳生 超絶技巧を超えて 展

 taronasuでの展示、見てきました。

展示ではモノクロとカラーの写真を上下に配置しているんだけど、カラーの中にははっとするくらい彩度の鮮やかな写真があって、いつものプリントの色づかいとは明らかに違っていた。もちろん大自然の中にある非現実的な色彩の風景を撮ったというわけではなく、モノクロと並べたことで色つき、色なしの上下の写真で比較することになり、人間が色彩から何を読み取っているのか考えがいくようになっている。

例えば海岸の先端部を撮った写真で、モノクロではその海岸のフォルムに目が行くけど、カラーでは鮮やかな青い海の映った写真にリゾート地での休息のような安易なイメージが浮かんでしまったり。モノクロ写真の方は明暗のコントラストがあまりついておらず、奥行きがわかりにくいけど、カラー写真は彩度の違いを追って視線が動くので自然と奥行きも見えてくる。

ただ、考えるべきは人間が色彩から得る情報の豊かさ、という事ではなく、モノクロの写真では読み取る情報が劣化してしまう人間の視覚情報処理体系、あるいはモノクロ写真に人間とは別種の情報を読みとっていく他の情報処理体系(例えば機械学習とか)への想像力ではないか。また、併置ではなくあくまで上がモノクロで下がカラー写真という展示方法に込められたなんらかのヒエラルキー。原形質としてのフラットな画像データという意味でモノクロ写真が上に配置され、それに脚色を加えたのが下のカラーで写真である、というような考え方。

非常に興味深かったです。

 

 こちらも見てきました。展示の構成は記事の通り。

個人的には自画像を描いたシリーズよりも写真や版の下絵をグリッドに区切って座標情報を決め、大きな画面上のグリッドに模写、あるいは斜線を引く数で濃淡のパラメータを決めて転記していく手法が印象に残った。

版や写真という膨大に複製される像をグリッドの一マス一マスに記録していくことで定着させようという執念めいた行為。像に映った自分や風景を自らの手業で確定していかなくてはという強迫観念。イメージの氾濫により揺らぐアイデンティティを捉えようという執着。それがドット絵やカメラのセンサー画素の方法論と類似した形で生産体制のように確立し、後年の売り絵(展示のキャプションにそう書いてあるのもなかなかすごい)の花の作品群に展開されていく。ひまわりの絵なんか見ていてオプアートを見たようなめまいがした。

超精密写実画、行為としての記録表現、と様式から見てどちらかの箱に入れてしまうのは容易いけれど、複製物にグリッドを引いて一つの互換可能なデータ形式に変換し、新しい支持体に転記していくその手法にこそ、この作家の核心があるんじゃないかと思った。

新聞に自画像を書くシリーズは時事ネタに反応した表情が豊かでちょっとおもしろくなってしまっていた。

これも現物を見たら相当驚くと思います。ぜひ見に行ってほしい。